人を殺してみたかった。殺人について考える。
佐世保女子高生殺人事件。
その動機が「人を殺してみたかった」。
ただ純粋にそう思ったのだろう。
被害者にはきっと「運が悪かった」としか言い様がないと思う。
きっとたまたま。
頭がいいとか、悪いとか。騒ぎ立てるが、
ただ純粋に殺してみたかっただけだと感じる。
人間には殺人の欲求というものがある。
きっと誰しもが持っている。
ただ、それを行わないのは、普通面倒だからだ。
殺すための用意。計画。そして、殺した後のこと。
もろもろを考えるだけで、面倒である。
殺人は、それに見合うだけの価値を持ち合わせない。
ただ、感情的になって、その判断を間違うこともある。
それが一般的な殺人なのではないかと考える。
少年法に守られるから、15歳の時に殺した。という見方がある。
多分関係ない。少しずつためていった水があふれたのが、たまたまその時だけのこと。
多分使命感に似た何かがあったと考える。
それも切迫した使命感じみた何かだ。
人間は、意味が無いことに、意味をつけるのが得意ないきもの。
それは、わからないことが怖いから。
だから、きっとサイコパスやアスペルガーと言った言葉で片付ける。
そのことに意味が必要でなく、腑に落ちるかどうかが、安心できるかどうかが重要だ。
もしこの事件が、サイコパス、アスペルガーで決着がついたら、残念だ。
普通の人間が、何故殺人を犯さないのか?
それは、天秤にかけるからだ。
このままの生活と、殺人をした後の生活を。
それは、その先がある場合だ。
女子高生に未来は見えていたのだろうか?
給食に薬物を混入した時。
猫を解剖した時。
果たして家族は、向き合っただろうか?
きっと押さえつけたで満足しただろう。
これで大丈夫と。見当違いの薬を飲まされたわけだ。
見ていない。見ているふりをしていた。
きっと理解者はいなかった。
他人に理解できると思わなかっただろう。
孤独は簡単に作れるのだ。
既に、社会の中に病気が埋め込まれている。
個人個人の中ではなく。
きっと殺人はなくならない。
それは、根本的に不明な欲求だ。
経験しないとわからない。これは確かだ。
不明なのだ。
これまで幾度と無く行われてきたにも関わらず、不明なのだ。
その行為の意味することが。
だとするなら、体験談を残すべきなのかもしれない。
殺すということは、どういうことか?
きっとわからない。それは永遠に。