「かわいそう」を言ってしまう人が、「かわいそう」
聖者と愚者がいるとしよう。
あるところに貧しい老人が小屋に住んでいた。
お金はなく、残るは一欠片のパンだけ。
そんな老人のもとに二人の人間AとBがやってきた。
Aは、老人を見るやいなや
「何の金目もないのか。くそっ、くたばっちまえ」
と吐き捨てていきました。
もうBは、
「おお、なんてかわいそうな人なのでしょう。
わたしにできるのはこれくらいしかありません」
と持っていた干し肉を半分切ってわたしました。
この時、聖者は誰で、愚者は誰であろうか?
Aは、違うだろう。何もしていないのだから。
では、Bが聖者だろうか?
助けることを善い行いとするなら、そうかもしれない。
しかしその行動原理は、「かわいそう」である。
「かわいそう」その言葉は、人の上に立たないと出てこない。
もしあなたが、老人の立場になった時、どう思うだろう?
ありがとう? もちろんそれもあるが、
どこか自分を見下されている気分にならないだろうか?
何気なく使ってしまいそうな「かわいそう」。
この言葉は、相手の立場を見ないで使える。
つまり、自分はその位置から動かないのである。
相手に歩み寄ることもない。
もし病気の人に「かわいそう」といったとしよう。
その瞬間、僕の中には「自分は病気でないのに」といった気持ちがどこかに存在する。
病気という仕切りで僕とその人を分けてしまうのである。
かわいそうでない自分とかわいそうな相手
AでないからAと言える。
今回はそんな「かわいそう」という言葉を取り上げました。
この物語に、聖者はいるのだろうか?