ちょっとずつあるく

思ったことそのまま。でてきたものそのまま。グチャグチャな文章をそのまま。

勉強法

書きたいと思うことは色々ある。

でもいざパソコンの前に座ると忘れてしまう。

もしかしたらそんなものないのかもしれないけど。

 

ということで、勉強法。

勉強って言葉が嫌いって前書いた気がするけど、

他人に言うのも、他人から言われるのも嫌いってこと。

自分で言うには問題ない。それがアピールにならなければ。

 

いまや、勉強の仕方も変わってきている。

個人にしても、学校にしても。

有料で学んでいたものが無料にもなってる。

本を買わなきゃならなかったのが、無料アプリでみたいな。

やる気があるならいいけど、中途半端だとダウンロードしただけで満足する。

金をかけるっていうのは一種のやる気みたいなものな気がする。

だから、兼ね合いが大事。

 

勉強が変わっていくなら、教育のありかたも変わっていくべきだ。

いまでは、オンライン上で勉強できることがたくさんある。

大学レベルのものまであったはず。あんま覚えていないけど。

でもって、データも豊富になった。

知識を詰め込む必要はなくなってきた。

先生も、毎年同じ板書を何度も繰り返すのは時間の無駄だと思う。

その時間で、もっと教えられることが増えるはずだ。

というか、板書をノートに写しながら、話を聞いて、なおかつ理解できるなんて頭のいいやつにしかできないと思う。

ということで、板書は無くなっていいと思う。

写す価値のある板書なら、教科書にしてしまえ。

後は言葉で付け足せば足りること。

 

小学校の教育が今どうなっているか知らないけれど、あまり変わっていないのだと思う。

きっと、クラス単位で勉強していく。でもそれっていいことなのか?

ひとつのコミュニティで生きていくこと。それを学ぶには低学年からは早い気もする。

それなら、やりたいことをもっとのびのびとやらせる授業のほうがいいのではと思う。

大学みたいに選ぶとも考えたが、それはそれで難しいので、解決策はない。

というより、書いてて分からなくなった。

でも、楽しくあることが重要なのは確か。

よくわからないのでおしまい。

 

関係ないけど、勉強の中で歴史が一番嫌いだった。

まず、無意味に年号を覚えさせられる。

なくようぐいす?いいくにつくろう?

それを覚えてどうなるのか?どうにもならない。

なのにテストではそれを問う。だから嫌いだった。

歴史の勉強で、年号を覚えるのはナンセンスだと言える。

何故事件が起こったのか。どうして、都を移したのか。

本質をもっと楽しむことが重要なのである。

そこにはストーリーがある。もちろん全部が分かっているわけではない。

故に楽しいのだろう。考える余地がある。

そこを教えてくれる先生がいたらよかった。

もしかしたらこうなのかもしれない。みんなはどう思う?と